例会報告

2024.2.22第1831回 2月 第4例会印刷

SAA

会長の時間

仲田陽介会長

2月22日は、猫の日。猫の鳴き声「ニャン(2)ニャン(2)ニャン(2)」と読む数字の語呂合が由来で、1987年に制定されました。 竹島の日。1905年のこの日、日本政府が日本海上の島「竹島」を島根県の所轄とすることを公示したことに由来しています。島根県議会が2005年に制定しました。
2月23日は、天皇誕生日。第126代徳仁天皇ご生誕の日。富士山の日。「2月23日」の数字を「2(ふ)2(じ)3(さん)」と読んで、「富士山の日」というわけです。
そして、ロータリークラブの創立日。
1905年2月23日、ロータリーの創始者ポール・ハリス(弁護士)が、友人のハイラム・ショーレー(洋服生地商)、シルベスター・シール(石炭商)、ガスターバス・ローア(鉱山技師)と最初に会合をもった日である。
ロータリーは、一人のアメリカ人のビジョンによって始まりました。さまざまな分野の職業人が集まって知恵を寄せ合い、生涯にわたる友情を培うことのできる場をつくることが、ハリスの夢でした。
「事業をする人が友愛の気持ちをもって、仕事の上での知り合いの輪を拡げていくために、定期的に集まる会をつくりたい」とハリスが提案、他の3人がこれに賛成し、一つの職業から一人だけを会員として選ぶことで決まりました。
また、定期的に集まる場所は各会員の事務所を輪番にということから、会の名称がシカゴ・ロータリークラブになりました。
この2月23日を祝う創立記念日は、「世界理解と平和の日」として順守されている。この日、各クラブは、国際理解、友情、平和へのロータリーの献身を特に認め、強調しなければならない。理事会は、この2月23日に始まる1週間(2月23日~3月1日)を「世界理解と平和週間」と呼び、ロータリーの奉仕活動を強調することを決議しています。
宇都宮北ロータリークラブは、1985年11月5日に発足し、1985年11月21日にRI加盟承認されました。
ちなみに、我々のスポンサークラブである宇都宮ロータリークラブ。その宇都宮ロータリークラブは、1951年12月7日に発足し、1952年1月18日にRI加盟承認されました。
その宇都宮ロータリークラブのスポンサークラブは東京ロータリークラブ。日本で初のロータリークラブとして1920年(大正9年)10月20日に設立され、1921年4月にRI加盟承認されました。
東京RCは国際ロータリーにより特別代表に任命された福島喜三次とWalter Johnstone並びに米山梅吉の尽力により、日本で最初に創立された、ロータリークラブである。

ニコニコBOX

活性化

幹事報告

会員卓話

保坂久夫会員

皆様改めましてこの1月より当宇都宮北ロータリークラブに入会させて頂きました保坂久夫です。
本日は誠に僭越ではございますが、つたない話にお付き合い頂ければ幸いです。

本日の話の内容といたしましては、私の事を皆様に知って頂くと言う事を中心にお話をさせて頂き、最後に会社紹介と併せて当社取扱い品のPRをさせて頂ければと思っております。

まずは自己紹介になりますが、私1971年(昭和46年)2月11日生まれの猪年の53歳になります。
家族は妻と高校2年生の長女と中学2年生の長男の4人家族になります。私以外の3人は学校の関係から横浜におり、私は宇都宮で単身赴任生活を送っているところです。

私が生まれたのは宇都宮市材木町にありました中山産婦人科になります。父の仕事の関係から当時すでに両親とも横浜に住んでいましたが、両親ともに宇都宮生まれでしたので、親戚の多い地元での里帰り出産と言う事で、宇都宮にて生まれました。

その後は大学卒業まで横浜ですくすくと育ちました。
宇都宮にはお盆と正月に里帰りで来ていましたが、しっかりと住むことになったのは、昨年の4月末からです。それまでは父方の実家が戸祭で、母方の実家が宿郷町でしたので、私の宇都宮は駅を挟んだこの間がすべてでした。

趣味はベイスターズ応援・レコード鑑賞・アウトドアスポーツになります。趣味については後程生い立ちの中で詳しくお話させて頂きます。

生後から4歳(幼稚園の年少半ば)までは横浜市西区いわゆる横浜駅のそばで育ち、毎日マンションのベランダから東海道線や横須賀線を眺めながら育ちました。その後横浜駅からバスで20分ぐらい行ったところ横浜駅と新横浜駅の中間の片倉町に引っ越しをし、大学卒業までをすごす事になりました。

1977年4月横浜国立大学教育学部付属横浜小学校に入学、学校が山手駅にあった為、家からはバスと電車を乗り継いで片道約1時間かけて通っていました。この頃は毎日横浜駅の本屋に寄り道をして帰っており、この頃に色々な知識を身につけられたと思っております。本当に有隣堂さんには感謝しております。

私の小学生時代は今の様にゲームが無かった事もあり、子供たちがまとまって遊ぶような時代で、町内会のソフトボールチームに入って遊んでいました。私が野球に興味を持つようになったきっかけはやはり1977年に王貞治がホームラン世界記録を達成したときで、ちょうどこのホームランの出る数試合前に父親に連れられて後楽園に野球を見に行った記憶があります。この当時は洗脳されるがごとくジャイアンツを応援していたのを覚えています。
その後1978年に大洋ホエールズが川崎から横浜に移転し、横浜大洋ホエールズとなり、子供たちの間でも大洋ファンが増えてき、小学4年生の時にソフトボールチームの子らと大洋ホエールズ友の会に入り、横浜スタジアムへ応援しに行っていました。ただ当時は野球を見ているよりは、スタジアムの中を探検して遊んでいた記憶の方が大きいです。
こうして私の横浜DeNAべイスターズファン歴が始まったのです。まさかその後ファン歴40年以上で優勝はまだ1回しか見られないとは、この時は思っていませんでした。負けても騒がず勝った時は喜ぶという精神が長年に渡り鍛えられ、アンガーコントロールが自然に出来る様になっておりました。一喜一憂していたらファンが務まりません。

中学校は形式だけの試験はありましたが、エスカレーターで横浜国立大学教育学部付属横浜中学校に入学しました。中学校は弘明寺という場所にあり、1年生の時は横浜駅乗り換えの通学を行っていましたが、中学2年生になると地下鉄が新横浜まで延伸され、近所に地下鉄の駅が出来たことから通学は地下鉄1本で行ける様になり、通学は楽になりました。
部活は野球ファンの延長から野球部に所属しましたが、正直あまり上手くはならなかったなぁというのが実感ですので、皆様の過度な期待にはお答えで気ない事をこの場を持って申し上げておきます。
この当時海外でMTVが開局され、ミュージックビデオが怒涛のごとくTVで流されており、またFMヨコハマの開局もあり毎日のようにマイケル・ジャクソンやブルース・スプリングスティーン、ヴァンヘーレンをむさぼるように見入り、聞き入り毎月の小遣いやお年玉でレコードを買うようになりました。中学生の時生まれて初めて買ったレコードは「フットルース」で当時マイケル・ジャクソンの「スリラー」とどちらを買うかをレコード屋で非常に悩んだのを覚えています。この頃より洋楽好きとなり、一時はCDで買っていた音源も数年前からレコードで買うようになり、レコード鑑賞?レコード集めが趣味となっています。実はまだ行っておりませんが、このベルべ宇都宮の隣にもレコードショップがあり、その事も宇都宮北ロータリーに入会する事となった要因の一部となっております。

高校は自宅から一番近い神奈川県立横浜翠嵐高校へ入学しました。この時はバス、自転車、徒歩と天気によって通学方法を変えていました。
高校では部活は柔道部に入部、「柔よく剛を制す」という言葉から小さい者でも大きい者を倒せると言うスポーツという事に感銘を受け入部したのですが、やってみると圧倒的に体の大きい人が強く、「大は小を兼ねる」の方が正しいというのを実感してしまいました。また特に神奈川県は東海大相模をはじめとした私立の強豪校も多く、大会優勝の様な大それた目標は無く、黒帯を取るのが目標となり、中途半端な部活動となった事は後悔しています。
一方高校時代も貪るように洋楽を聞き、この時代に生まれて初めてコンサートにも行きました。人生最初のコンサートは横浜文化体育館で観たZZTOPです。あまりご存じない方も多いかと思いますが、当時はMTV全盛期でもあり、カッコいい車と綺麗なお姉さんがでてくるビデオで人気があったロックバンドです。

普通に勉強していれば、大学は何とかなるだろうと思っていたのですが、世の中甘くはなく見事受験に失敗し、浪人生活を送る事となりました。横浜駅すぐそばの駿台予備校の横浜校に入校したのですが、高校の校友が数多く居たこともありほとんど高校の延長でした。また浪人が決まった春休みにはすぐに自動車免許を取得しあちこち遊びに行こうという考えが横切りましたが、お金もなく勉強しないといけない立場であった事もあり、結局浪人時代は真面目に勉強する事となりました。そのかいあって無事早稲田大学商学部に入学する事が出来、大学生活をスタートさせることが出来ました。

大学時代は早稲田大学ユースホステルクラブに所属しバックパッカーとして国内のみならず長期休暇を利用し、当時円高で1ドルが110円くらいであったこともあり海外を旅していました。高校時代や浪人時代の反動で一つのところに居て何かをするのでなく、好奇心の赴くままあちこちに行って見分を広めたいと思ったのが入会の動機でした。
またこの頃よりサークルのメンバーとキャンプやトレッキングなどを楽しんでいたのでアウトドアスポーツに興味を持っていた事もあり、旅先で出会ったシーカヤックに後々のめりこんでいく事となったのです。

大学3年時からのゼミは国際経営史の川邉ゼミに所属し主に時代ごとの企業発展の歴史を学びました。当ゼミはまだ私で2期生であり就職に有利なゼミOBもあまりいなかったのですが、志の高いゼミ生が多かった事もあり、海外研修も含めかなり活発なゼミでした。

就職活動ではアウトドアが好きであった事から、山や海に近い会社と言う事で、海運・鉄鋼・農林・鉄道などを中心に就職活動をしましたが、日本でも有数の山林持ちである住友林業株式会社にご縁があり就職する事となりました。

住友林業に入社し最初の勤務地は大阪で主に建材(キッチン・風呂・断熱材・石こうボード)の商社活動をし、近畿2府4県の建材問屋・販売店に営業を行っていました。初めて関東を離れ関西で生活する事となり、文化の違いにかなり戸惑いました。正直1年目は言葉がきつく感じ鬱になるかと思いましたが、しばらくするとかなりいい加減な文化と言う事が理解でき、とても過ごしやすい場所になりました。
この当時の思い出は入社早々の1995年1月に阪神大震災にあった事と1998年の甲子園での横浜ベイスターズ優勝の瞬間に立ち会えた事です。

またこの時分、社会人2年目になり生活も余裕出来てきた頃、海外赴任する先輩の車を譲ってもらう事となり、初めて自分の車をもちました。車は緑のホンダインスパイアです。ただ電装系の故障が多かった事もあり、早々と手放す事とし、当時RVが流行っていた事もあって新たにJEEPチェロキースポーツに乗り換えドライブやスノーボードに行くのに活躍しました。
この頃何かの記事で知った北海道の知床半島をシーカヤックでキャンプをしながら周るガイドツアーに参加する様になり、結婚するまで毎年の様に夏休みになると知床へ行きシーカヤックにはまって行きました。私の人生においてシーカヤックは非常に大きな経験となっており、私の人生観をも形作るものとなりました。

入社して5年が経ち初めての異動で岡山へ。仕事の内容は変わりませんでしたが、地方生活は初と言う事もあり、ここでは文化よりも町の規模にカルチャーショックを受けました。今まで当たり前の様にあると思っていたものはなく、街に出ても人も少なく、夜も早い。逆に自然が身近なところに沢山あったので、今まで以上にアウトドアスポーツにのめりこみ、シーカヤックを手に入れ、夏は瀬戸内海でシーカヤック、冬は山でスノーボードとアクティブに過ごしておりました。

2年間の岡山勤務ののち、職務内容は変わらず東京、千葉と異動し、その間私生活では2004年に妻と結婚、2006年に長女も誕生し、仕事も慣れ落ち着いた社会人生活を送っておりましたが、2007年に住宅事業本部の資材部、いわゆる住友林業の家の部署に異動になりました。これはまるで転職したかのようで同じ会社でありながら文化は全く違うし、社内システムも全く異なっているので、本当に一から覚えなおしという状況でした。またそれまで土日が休みであったのが、水・日休みと生活も一変しなじむのに一苦労しました。資材部当時の一番の出来事はアルミ樹脂複合サッシの防火認定取消問題が発生した事です。これは2005年の姉歯事件で構造計算を偽装した事に端を発し、色々な認定が厳しくなるきっかけとなり、それまで通則認定で通っていたものが個別認定に切り替わっていったのですが、サッシも過去何十年も前に取得した通則認定で製造販売されていたのですが、某メーカーの樹脂サッシが耐火試験の結果、防火性能を有しないと言う事があり、そこからアルミ樹脂複合サッシも実際に試験したところ、防火性能を有しないと言う事になり、既存の物件の防火基準適合対応や、建築途中のサッシの入れ替え、防火性能を有するサッシの開発などをサッシメーカーと交渉し、仕事がとんでもなく忙しかったのを覚えております。

資材部で5年を過ごしたのち、関係会社の住友林業ホームテック㈱というリフォーム会社での資材部立ち上げに伴い、同社へ出向し8年その後、もといた商社部門に戻る形で四国支店勤務となりました。2019年の10月に四国に赴任したら、翌年の2月からコロナ禍で行動制限を受ける事となった為、あまり四国の事に詳しくなれなかったのが心名残です。

四国勤務時代にブリヂストンタイヤ栃木販売㈱の現社長である私の従兄より事業を手伝って欲しいとの話を請け、祖父の興した事業に協力する事を決断し、2023年春に29年間務めた住友林業㈱を退社し、ブリヂストンタイヤ栃木販売㈱に入社、そして現在に至ります。

宇都宮に来てからの私の趣味は温泉巡り、酒蔵・酒屋巡り、蕎麦屋巡りになっています。
ただ宇都宮に来て食事がおいしい事から体重が大分増えてしまった為、今出来るだけ節制する様務めております。

ここまでが私の自己紹介になります。

ここからのお時間は私の会社紹介並びに取扱い製品のPRをさせて頂ければと思います。

会社概要
ブリヂストンタイヤ栃木販売
創業1948年
従業員 133名 関係会社を含めると179名になります。

主な事業内容 自動車タイヤ(ブリヂストン)及び関連商品卸売り・ボルボ販売
取引先:タイヤショップ・オートショップ・カーディーラー・ガソリンスタンド・自動車修理工場他
営業所 栃木県内に6か所 宇都宮・宇都宮中央・栃木・佐野・西那須野・真岡

関連会社
ブリヂストンリテール栃木㈱ 栃木県内にタイヤ館5店舗を運営
㈱ブリヂストンタイヤサービス栃木 バス・トラック用タイヤ販売
㈱ビーエスオートサービス 車検・車修理

ここからは当社取扱い製品のPRとして今年2月に発売開始になりましたブリヂストンの最上級タイヤREGNO XⅢと昨年11月発売になったVOLVO EX30の紹介動画をご覧下さい。

皆様本日はご清聴頂き誠にありがとうございました。
今後共何卒宜しくお願い致します。

出席報告

会員数 出席数 欠席数 出席率
44名 %
前々回MU 前々回訂正 前々回訂正率